松尾峠から湯川谷・ザラ峠越え
(北アルプス北西部・立山連峰)その3
ウェストンの足跡を訪ねて

2011年11月3日〜5日(幕営2泊3日)
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【山行記録つづき】

()立山新湯へ
緊急避難路入口(湯川谷右岸1350m)12:50/55--下流の堰堤(湯川谷を左岸へ渡る)13:00--兎谷出合13:03/13--松尾谷出合(橋を右岸へ渡る)13:20--(右岸の工事道路)--左岸への渡渉点(サンダルに履き替え)13:40/14:00--(左岸沿いの踏跡)--フィックスのある古い堰堤14:15--(左岸の高巻道)--新湯地獄(湯の池)14:35/40--新湯の湯滝(湯川谷左岸・幕営)14:56
 「避難路入口」には、『松尾峠方面』の道標があるにはあったが、笹に隠れて目立ず、離れたところから(対岸)この道標を見つけるのはほとんど不可能に思えた。逆コースでこの道を利用するには(ザラ峠から降りてくる場合)、対岸(左岸)から湯川谷を渡渉してくることになり(下流の堰堤の利用も可能、後述)、「入口」までこの「避難路」を示す案内・表示等一切ない。「避難路」を見つけるのは、松尾峠からの下降の場合よりはるかに困難で、事前に「入口」の位置を地形図上で指摘出来る程度の準備は必要と思われる。
 この先当面は、対岸(左岸)に見える工事用道路を歩くことになり、渡渉ポイントを探してみるも、思いのほか水量が多く、靴を濡らさずに渡れそうになかった(上流側)。河原歩き用にサンダルは持参していたが、何度も履き替えるのは面倒、下流側を見ると少し離れたところに堰堤が見える。行ってみると最近竣工した堰堤でこれを登って渡ることができた。堰堤の竣工碑のところで一休み。
@1882m峰             A松尾峠           B緊急避難路入口
 さて、今日はこのあと湯川谷を遡って噂の野湯「新湯」で幕営の予定。まだ、13時前なので、夏の感覚なら、ウェストンも投宿した立山温泉跡地や泥鱒池を見に行きたいところ。ただ、往復1〜2時間は見ておかなければならず、新湯まで2時間と見ると到着が17時頃になってしまう。どんよりした天気のせいか既に夕方のような雰囲気だし、最近は17時にはもう真っ暗、ちょっと残念ではあるが今回は諦める事にした。
【立山温泉について】
 立山温泉は、富山県中新川郡立山町にかつてあった温泉。ガイドマップで確かめてみると、立山カルデラ内、湯川谷を挟んで泥鱒池の対岸(左岸、標高1300m弱)に位置していた。この温泉のことは、数年前ウェストンの『日本アルプス再訪(水野勉訳・平凡社)』を読んで初めてその存在を知った。
 ネットで調べてみたところ(Wikipedia『立山温泉』)、立山温泉は、立山信仰の拠点として江戸時代は非常に賑わったこと、1858年の土石流により一旦は温泉街が壊滅したものの、明治時代初期の新しい源泉の発見に伴い復興し、1973年に廃湯となるまで営業が続けられていたこと、が解った。
なお、廃湯は@1969年に温泉街が豪雨被害に遭った上A1970年のアルペンルートのバス路線開通により採算が取れなくなったことが原因らしい。
 
 今回確認できなかったが、6月の山行の際ビバーク地から立山温泉跡地付近を望むことが出来た。泥鱒池と湯川谷にかかる吊橋が見えたのだが、その橋の先が跡地だったのだろう。それは深い谷間にあり、よくもこんな立地条件の悪いところに温泉街があったものだと感心した。
しかし、今でこそ登山道といえば、ほとんど尾根道であるが、信仰登山の時代や近代登山の黎明期には、沢沿いの道が一般的であり、その途中に源泉があれば温泉街が出来てもなんら不思議はない。昨今の温泉ブームを思えば、もし、常願寺川が暴れ川でなければ道路が整備されて(折立からの林道は一般車通行禁止)、立山温泉の存続や、ザラ峠への道の復活が期待できたのかもしれない。

 ところで、ウェストンはザラ峠越えや立山登山でこの温泉を三度訪問している。『日本アルプス登山と探検』に、当時の立山温泉の様子を窺い知る記述があったので、以下に示す。なお、これは、1893年8月の「針ノ木峠・ザラ峠越え(逆コース)」の際のものである。
---- 『日本アルプス登山と探検(W.ウェストン 岡村誠一訳・平凡社ライブラリー)』-----------
 (現在の新湯から)半時間ほど谷間をくだって行くと、急流のそばに広場が見え、そこには竜山下とか立山ともいう温泉、つまり立山(1245m)の下の温泉として知られている小屋が奇妙に集まっていた。
<中略>
これはなんという奇妙な建物だったろう!切り開いた所の一角に体裁を飾らない建物が建っていて、そのなかには、経営者の事務所と台所のような所と、比較的よいお客のための2,3の個室があった。これと直角に、5,6列の小屋があって、もっと貧しいお客がはいっていた。その人たちは、寝室にも食堂にもなる2.5m四方くらいの小さな部屋へ食べ物を持ち込み、自炊するのである。居間は浴場にもなっているのである。どのお客も部屋代と風呂代に一日半ペニー支払う。湯殿そのものは、構内の一番はしにあって、両側が一部分開いた大きな小屋でできている。浴槽は四つに仕切られた木の非常に大きなタンクで、四方およそ3.5mくらいである。湯の温度は41度から49度くらいまであり、一番熱いのは一番初めに湯を入れたものである。入浴者はおもに、常願寺川の上流近くの村々から来る百姓だった。男女混浴で、時には一度に50人くらいもはいるけれども、みんなの態度は非常に行儀がよい。私が竜山下に滞在していたあいだじゅう、二百人のお客が泊まっていた。
 
 南に面して、大鳶山つまり「大きな鳶の山」の崩れた山塊がそびえている。1858年のあの恐ろしい地震の際に、その北のほうの大部分は崩れ落ち、谷川の水をせき止めた。後になって、冬の雪が溶けた時、せき止められた水は堰を越えて流れ、ずっと下にある谷間を広い範囲にわたって破壊した。私が部屋のそとにある縁側に立って眺めた山の景観は、私たちが着くとすぐこの谷間を襲った雷雨で余情のあるものとなった。夕日の柔らかな光線に包まれて今やだんだん濃い色になって行く鋸歯状の木のない赤い絶壁が、オパール色の空を背景に、くっきり輪郭を描いてそびえ立っていた。そしてこの絶壁は緑濃い松ノ木や緑の色さまざまな草木でおおわれたなだらかな斜面とみごとな対照をしていた。
 閑話休題

 兎谷出合の橋を渡り、湯川谷左岸の工事用道路を歩く。既に休工期間なので誰もいないと思っていたら、工事関係車両と思しきワゴン車とすれ違った。
松尾谷出合(橋あり)から道路は右岸沿いになる。
     (左)兎谷出合        (中)松尾谷出合     (右)松尾谷出合の橋の先は右岸の工事用道路を歩いた
途中7〜8mの新しい堰堤を越え、対岸(左岸)に見える滝谷出合付近の建設中の堰堤を過ぎると道路が途切れた。この後は川原歩きかと思って周囲を見回すと、対岸(左岸)の潅木帯に赤テープが見つかった。
用意してきたネオプレーンの沢用ソックス+サンダルに履き替え左岸に渡り返す。渡ってみると潅木の中に明瞭な踏跡が続いており、いたるところにピンクのテープがつけられていた。それは数mごとににあり登山者がつけたものにしては多すぎる。新湯の湯の池はオパールが採れ、最近学術調査も行われたと聞くので、そのときのものかもしれない。
 概ね潅木の中にある踏跡は、トラロープのついた古い堰堤を2つ越えた後は、高巻道となり湯の池のすぐ上に導かれた。これは、ウェストンが『(湯川の)左岸にある周囲270mくらいの、湯のたぎる奇妙な池(日本アルプス登山と探検)』と記述しているもの。エメラルドグリーンの池からは、湯気がもうもうと立ち込めており、そこからでは全貌はわからなかった。
幕営予定地は湯の池の直下にあり、池経由で直接行くには湯滝を懸垂下降すればよいらしい。ここから、池には急な踏跡をトラロープに伝いに下りられそうだし、懸垂下降用のロープも持参していたが、いまひとつ気が乗らなかった。結局、幕営地までは、安全策を採って堰堤まで往路を戻り川原に下降、時折へつったりしながら左岸を歩いて行った。

 新湯の湯滝は左岸の川原より一段高いところにあり、その直下の小平地に二人ほど入れる湯船がある。おそらくは、もともとあった小さな釜に人が手を加えたものであろう*。しぶきがかからない程度に離れた位置にテントを張る。


 さて、野湯の方は、滑滝が打たせ湯、湯船のほうも丁度良い湯加減でなかなか快適。ただ、湯船に溜まった腐った落ち葉と湯の成分の相互作用なのかちょっと臭いが気になった。また、落ち葉は触るとかぶれてかゆいし(妻は平気)、取り除くのに手間がかかるのも難点(滝を流れてくる)。
 夜になると次第に晴れてくる。星を見ながら湯船で一杯というのはなかなか気分がよかった(酒やつまみを持参した甲斐があった)。

*湯船を掘るつもりでスノースコップを持参したが不要だった。湯船には古いシートが残置してあるものの、シートは持参した方が無難。
 
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