現存天守閣 最後の四城

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天守閣は、織田信長の時代望楼形天守と呼ばれる、寺社等の建築様式(強固)の上部に望楼を乗せる形でしたが(安土城・丸岡城等)、高虎は層塔型天守を考案した(松本城・松山城等)。柱寸法の規格化を行うことにより(現代のプレハブ工法のようなもの)、材料調達が容易になり、工期を短縮でき、短期間に多くの築城を行うことができました。

各地の城を見て歩きながら、段々とその魅力に嵌っていきました。
12天守に使われている古い材料と、強度・美・防御の工夫にも興味が沸きますが、何と云っても築城の6割を負担する石垣の造形美には、圧倒される事も合わせ、時が過ぎて行くのを忘れ、見惚れてしまいます。
全体は現存していなくても、石垣を含めた城の縄張りを想像していると、戦国武将の命を賭けた男のロマンを感じさせられます。   これからも機会が有るたびに各地の城を訪ねたいと思っています。

広島城
鯉城とも云われている、総石垣造りの平城。(私の故郷です) 毛利輝元の築城で、江戸時代福島正則ー浅野家と引き継がれました。

弘   前   城
現存天守では最北に位置し、幕府の目付役として奥羽に睨みを利かせる巨城です。当初は西南の隅に五層の天守であったが焼失し、現在の天守は江戸後期に再建されたもの。江戸時代初期以来の貴重な建物が八棟現存している。 現在は北の桜の名所として知られている。

丸   岡   城
最古の天守と云われているが諸説がある。日本海に面した寒冷
な気候から、瓦は全て石瓦で葺かれている。銃眼や物見窓の
荒々しさからその佇まいは、古武士のような無骨さを覚える。

霧が発生しやすく天然の防御となり、別名「霧ケ城」と呼ばれる
天守以外の古い建造物は一切無い。
伝説「人柱お静」の慰霊碑。
築城のとき、子供を侍に取り立ててもらう事を約束し、人柱となったが、城主が移封され約束は果たされなかった。

備  中  松  山  城
 現在の天守は小松山の山頂(標高430m)を中心に
構築されたもので、天守の現存する山城としては随一の
高さです。 自然の岩盤の上に石垣を組み、天守を乗
せているのは山城ならの構造です。  寒さ対策で天守
内に囲炉裏が切って有るのも珍しい造りです(中央の写
真)
自然の地形と岩盤を利用し、険しい石垣で防御体制を造っています。      現地に早朝7時に到着しましたが、高梁市の管理の方の好意で入城出来、無人の中一人で見学しました(開場は9時)、高梁市の管理の方有難うございました。

松   江   城
四層五階地下一階の天守には三つの特徴がある、寄木柱と
可動式桐の階段、そして下方を鉄砲で狙う袋座間で、他の天
守には見られない。   宍道湖北側に築かれた湖城で、堀川
は湖につながっており、薄い塩水である(汽水域)

人柱伝説(盆踊りの娘と虚無僧の二人)のあるこの城では盆踊
りは行われなかった、又尺八の音が聞えた、云われていた。

宍道湖に沈む太陽は赤く大きく美しい、当時も美しかっただろう
柱は、肥え松の一本の柱の外側に、板を揃えて寄せ合わせ、これを金輪で締めて太い柱が作られている。この寄木柱の方が、普通の柱より力学的に強く、吉晴の苦心の作である。

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